図書館本

2009年から2010年にかけて共同通信から地方紙に掲載されたエッセイに加筆

芥川賞受賞後にパニック障害、うつ病となったご自身の生き様、そして出自等は他著でも書かれているのでじゃっかんの物足りなさはあるし、くどさを感じる。まあ、初めて読む方には良いかな。
芥川賞直後の「落葉小僧」だけが単行本、文庫本ともに絶版とある。(実は僕はこれが一番好きで両方所有しているのだけれど、、、)
南木さんを担当していた亡くなった女性編集者を村上春樹にも非常に評価していたと書かれている。
編集者が作家を育て作るのだろう。

備忘録メモ

「わたし」は不特定多数から認証されるのではなく、目の前の、呼びかければ答える「あなた」がいるからかろうじてその存在を実感できるだけのはかないものだと明確に自覚出来る歳になった。

だれかの話を聴く。それを解釈した「わたし」の想いを提示する。世界がわずかに広がる。

過去は、書き始めたいた、そして、書き終えつつあるいま、じぶんに都合よく刻々と制作され続ける。

あの夜の静寂を懐かしむのは、過去を、つまり「わたし」そのものを創ってくれた死者たちと闇の中で溶けあっていた、生が死のなかに尻の先から溶けてゆくようなあまやかな感触をもういちど味わいたいからなのだ。 もう、無理、だな。

湖畔のベンチに座り、湖の向こう、低い丘の端に沈む雄大な夕陽をながめていた。速すぎず、遅くもなく、夕陽はゆるやかな深呼吸と同期しつつ沈んでいった。いっさいの出来事はこんな絶妙な速度で過ぎてゆくのだな、と身の深いところで納得できた。おそらく、眼前の豊かな水が想いの深度に影響するのだ。沈んだ夕陽が雲を紅く染め、過去そのものの移ろいを反映する。色の変化に魅了されたが、腹が減った「いま」にせかれ、宿への帰路を急いだ。

事実は物語よりはるかに複雑で、重い。

小説がかなわない、美しく、グロテスクな現実は常に身近にある。

生きてるかい?
南木 佳士
文藝春秋
2011-06