東京新聞:フクイチで考える(5) 核と共存できるのか:社説・コラム(TOKYO Web)

人類が制御出来ないモノを未来に先送りすることが正しい?
1万年先の放射能の責任を誰が取るのだろう。
お時間あれば是非、下記の本を読んでみてください。
核廃絶を願ったアインシュタインの願いは、平和利用という言葉に翻弄され、最後には軍縮に置き換わってしまった歴史。

以下記事
フクイチを巡る取材バスの中で強く思ったのは、日本に落とされた原爆はアメリカがつくったが、この原発事故の被災地、代表撮影=をつくったのは、ほかならぬ日本だったということだ。

 外には、強力な放射能ちりを吸い込まぬように、大型のマスクと装備を着けて働いている人たちがいる。周りには住めない土地がある。そういうことを私たちは自覚せねばならない。

 この場所は、事故後よく知られた通り旧陸軍の飛行場だった。海を見下ろす高さ三十メートルの海岸段丘の上。そこを二十メートル掘り下げて原発は建設された。科学技術が万能と信じられた時代。だが、掘り下げた分だけ津波は大きく襲った。

 一九四八年、湯川秀樹博士がノーベル賞を受ける前年。アメリカの研究所に招かれると、すぐにアインシュタイン氏がやって来た。博士の両手を握りしめながら「罪もない日本人を原爆で殺傷して申し訳ない」と涙を流してわびた。

 原爆と原発はもちろんちがう。

 だが、放射能汚染という災禍は同じである。

 思い出されるのは「核と人類は共存できない」という、広島の哲学者にして運動家の森滝市郎氏のことばだ。彼は被爆して右目を失った。考えに考え抜いた末、核兵器はもちろん、原発もやめるべきだと決心した。ウランを掘る人から最終的に燃やし処理する人まで被ばくの危険がある。ましてや事故を起こしたら。

 私たちは、廃炉ということばを割合簡単に使う。だが、どうか。その疑問はここへ来ればわかる。

 福島の廃炉はうまくいってほしい。しかし、それを進めながら原発とは私たちにとって一体何なのかと自問を繰り返そう。

 何より原発に代わるエネルギーを、私たちは努力すればもつことができる。フクイチはそう語りかけてくる。 (深田実)

「科学者の社会的責任」についての覚え書 (ちくま学芸文庫)
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