asahi.com:「きけわだつみのこえ」中村克郎さん死去-マイタウン山梨



「きけわだつみのこえ」中村克郎さん死去


   ■「功績はかりしれぬ」わだつみ会現理事長

 戦後日本を代表するロングセラー作品となった遺稿集「きけわだつみのこえ」を編んだ甲州市の産婦人科医、中村克郎さんが22日、亡くなった。86歳だった。戦争の悲惨さや平和の尊さを訴える反戦活動に心血を注ぎ、国内に大きな足跡を残した。関係者からは死を惜しむ声が絶えない。

   ◇「使命感に燃えていた」妻

 克郎さんは1925年、医師家庭の三男に生まれた。東大医専部卒業後、塩山で中村医院を引き継ぐ一方、「わだつみのこえ」を編集する日本戦没学生記念会(わだつみ会)の理事長を70〜93年に務めるなど、平和運動に身を捧げた。

 学徒出陣で戦地に赴く東大理学部の兄徳郎さんから、のちの「はるかなる山河に」や「わだつみのこえ」につながる「日本戦没学生の手記」を受け取ったことが克郎さんの活動の原点。最盛期で約500人を数えた学生団体、平和団体の代表として「わだつみのこえ」の編集、出版にとどまらず、言論活動の先頭に立った。

 現理事長の石井力さん(72)は「中村さんが会に果たした功績ははかりしれない」と話す。

 戦火に散った徳郎さんの無念を思い、「戦争の否定と軍備の廃絶のために戦う」と言い聞かせていた克郎さん。そんな克郎さんの意をくんで、東京都内で産婦人科医院を営む長女はるねさん(57)が中心となって取り組んだのが、克郎さんが集めた書籍や文書などの資料を一堂に会した「わだつみ平和文庫」の開設だった。

 克郎さんは12年ほど前に交通事故に遭い、脳梗塞(・こう・そく)で倒れてから亡くなるまで10年近く塩山市民病院で闘病を続けた。親族やボランティアら約3万点の資料を整理し、2008年10月に開館にこぎ着けた。はるねさんが寝たきりでほとんど口を開くこともなかった克郎さんに伝えると、「ありがとう」と答えたという。

 昨年11月には、立命館大国際平和ミュージアムに、平和文庫から徳郎さんの手記など約49点を寄託した。

 遺族によると、最期の克郎さんは病院で家族が見守るなか、眠るように息を引き取った。死因は肺炎からくる急性呼吸不全だった。

 地域で数少ない産婦人科の町医者として、地域医療も支えた。

 孫の多謝さん(28)は今年、米国の医学系の大学院へ進学することが決まった。「おじいちゃんみたいな、心が豊かで広い医者になりたい」と話す。

 一番の理解者として支えた妻照子さん(85)は、「どちらが本業かわからないくらい熱心でした。使命感に燃えていたのかもしれません」とほほ笑んだ。

   ◇

 克郎さんの葬儀は24日午後0時30分から山梨市上石森155の1のアピオセレモニーホール山梨で。喪主は妻照子さん。自宅は甲州市塩山上於曽1092。
(床並浩一、佐藤美鈴)

《キーワード》 きけわだつみのこえ 太平洋戦争の戦没学生の手記をまとめた遺稿集で、初版は1949年。推定販売部数は200万部を超える。47年に刊行された東大戦没学生の手記集「はるかなる山河に」をもとに中村さんら編集メンバーが全国の学生の手記を加えた。版を重ねるごとに国民各層に共感の輪を広げた。