<水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い> : by 寺島実郎|ヤマト姫の玉手箱


このブログから引用。


その後、私は水上達三さんについて調べて感慨深いことがありました。まず1つは人間山脈であるということで、人間はひとりでは育たないということです。水上さんは山梨県の甲府中学校の出身者で、中学の先輩の影響を大変に受けたそうです。彼が尊敬してやまなかった人物は東洋経済の石橋湛山で、戦後、首相にまでなりました。水上さんは石橋湛山主宰の勉強会にいつも参加をしていました。
 石橋湛山は甲府中学校の伝統としてクラーク博士の影響を物凄く受けた人物です。それは何故かというと、これは話がややこしくなりますが、私の故郷北海道で、クラーク博士というと札幌農学校で現在の北海道大学です。クラーク博士が日本にやって来て、実はクラーク博士は8カ月しか日本にいませんでした。つまり、第1期生だけしか教壇に立っていないということになります。第2期生の人たち、その中には内村鑑三もいますが、実際はクラーク博士の顔も見たことがなかったのです。しかし、先輩たちが「クラーク博士という人が昨年まで教壇に立っていて彼はこんなに情熱がある素晴らしい人だった」と、あの有名な「Boys Be Ambitious」の世界を語り継いでいって大きな影響を与えているということです。

 クラーク博士に直接薫陶を受けた1期生のひとりで大島正健(註.2)という人がいました。この人がその後に甲府中学校の校長となって赴任していくのです。大島正健の影響をもろに受けたのが先程からお話ししている水上達三だったわけです。
 水上さんが影響を受けた石橋湛山は自分の「湛山回想」という本の中で、「自分の意識の底に常に宗教家的、教育家的な志望が潜んでいたことは明らかであり、私は大島校長を通じてクラーク博士のことを知り、これだと強く感じたのである。つまり、私もクラーク博士になりたいと思ったのだ。私はいまでも書斎にクラーク博士の写真を掲げている」と書いてあります。ここのポイントは何かというと、クラーク博士がアメリカからやって来て撒いた種のようなものが大島正健という校長を通じて石橋湛山に繋がり、石橋湛山を尊敬してやまなかった水上達三が戦後日本の貿易を支えて頑張って戦ったのです。私はこれがまさに、人間山脈であると言いたいわけです。人間の影響が脈々と伝わっていくもので、小さな1粒の種がそのように大きな影響を与えて、戦後の日本の貿易の戦線を支えていく人になっていったと言ってよいと思います。