清浄なる精神 内山節 信濃毎日新聞社 2009年11月

内山さん(1950−)が2007−2008に信濃毎日新聞で連載した「風土と哲学―日本民衆思想の基底へ」の単行本化。そして再び強いナショナリズムの時代が将来生まれるかもしれないという危機感を持っているとあとがきで述べている。
内山さんの危機感はこれまでの著作の中からも明らかであり、不安の時代からさらに怯えの時代に向かっているのは間違いないところだろう。漠然とした不安が怯えに変わり、そこにナショナリズムの台頭という歴史が繰り返されるのかもしれない。
さて、読み終えていつも通りに付箋紙だらけになってしまった。

備忘録的に記しておきたい。
私がおこないたいのは、永遠の無事を求めた日本の民衆精神によって、現在の国家主義的な思想を否定することである。あるいは、そこからこれからの哲学の航路をみつけだしていくことである。(序論)
「あの世」に包まれて「この世」があると思えた頃は、死は安らぎであったのではないかと思う。なぜならそれは、「包まれた世界」から「包む世界」に行くことであり、「助けられる世界」から「助ける世界」に行くことだったのだから。 p29
日本の伝統的な信仰は教義からは入らない、修行がすべてである。中略 「懺悔懺悔・六根清浄」 中略 六根とは人間の意識を作り出している「六識」のことで、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識からなるとされる。p34
かっての日本には、自然や森や木を大事にする共通の意識があったという通俗的な説に私は同意しない。村で自然とともに暮らした人たちの発想と、国家の中に自己を位置づけた支配者たちの自然観は、古代から同じではなかったのである。むしろ自然観だけではなく、民衆の精神と国家の支配者の精神が大きく乖離しながら、その両者が並存してきたのが日本の精神史であった。そして現代とは、この乖離が風化した時代である。 p58
多層的な心理あるいは心理の多層性(心理は一つでなく多層あるいは多元的であることby自分の解釈)p76 「折り合い」は昔「居り合い」であり折れ合って妥協点を見つけるのでなく多層的に共存できる関係性(意訳です)p78
共同体の意思決定に多数決はない。満場一致しか伝統的にありえない。(禍根を残すから。宮本常一さんの忘れられた日本人の対馬の話と同じですね)p86
村の思想と都市の思想があり、日本の伝統思想は多層的であった。そしてそれをこわし、単層的な国民国家を作っていく歴史が日本の近代化であった。p87
いま私たちがつかみなおさなければいけないのは、多層的な精神が成立してくる「場」としての村とは何だったのか、であろう。今日において村を軸にした社会を創造することは困難だとしても、村の人々からなぜ絶対的な真理を求めない思想が生まれたのかは、つかみなおしておいてよい。中略 私は、一元的な価値観のもとで暴走する今日の時代に対抗したい。p93
西洋的な個の確立が自分の力だけに頼るのに対して、日本的な個は、他者からの働きかけと結ばれながら確立される。 p121
現代の宗教は「自分のため」だけのものになっている、また社会も同じ。p147
平凡あるいは無事であることの豊かさ p176 その反対の「有事」の世界は個人の世界である。
死の意味を個人でみつけださなければいけない時代は、残酷な時代なのだと思う。そしてその状況が、人間の死や生の意味を「国」と結び付ける国家主義の時代をつくりだしたのだと思う。p187
「自分のための労働」から、自然をふくめた「他者のための労働」p239
「国」から「くに」へ、そして「僕の村」や「私の町」へと、私たちの思考を変えていくことはできないだろうか。もしもそれができたら、私たちの世界はずっと平和になるという気が私にはする。p279





清浄なる精神
清浄なる精神
クチコミを見る