内田樹さんは、著書の中で文化資本という言葉を用いていた。
確か、収入や学力のように個人の努力等でどうにかなるものではなく、育った家柄で全てが決まってしまうもの、例えば芸術や音楽などをガキの頃から知らず知らずに親しんでしまい、体得してしまうのも。
この様な人を文化資本者と呼ぶならば、自然資本者が当然いるわけである。
ガキの頃から野山でも里山でも海浜でもよい、まさに自然の恵みと自然の脅威の中で自然に生き、育ってきた人々。
決して脳化した都会では学習も技能も体得しえない体ににじみこんでいるモノ。
そこには経済や貨幣と言う文脈は僅かしか関与していないように思う。

ふとそんな事を考えていたら、数年前に釣りに同行させていただいた
某東京電力を定年された方の渓流での歩き方、いや走り方を思い出した。

自分より10歳以上歳は上なのに、まさに石の上を飛んで移動するのである。
それは、まさに子供の頃に父親と家の近くの山歩き(山仕事)をして、あるいは釣りをして身体で覚えてしまった(喪うことのない)技なのであった。

養老さんが言うように、頭の良い人はそこらじゅうに居る、ただ、頭の丈夫な人がどれだけいるのか?
其処が地域や社会存続の決め手なのでは思った。

自然資本者と文化資本者の両方を兼ねた人が増える事、もちろん、どちらかでも良いのであろうが、その事が「美しい国」づくりの土台になるように思えてならない。

経済人は文化人でなければいけないように、自然資本者でもなければならないのでは思う今日この頃。

ちなみに自然資本者はおいらの勝手な造語です。(笑)