森亮輔氏(以後ドクターと表記)が平成21年3月23日午前3時55分に逝去した。75歳の生涯であった。思うままに自分の記憶をたよりに綴っておきたい。それは彼が俺の第二のオヤジであると勝手に想い込んでいるからである。今後この文章は追記あるいは修正があるでしょう。

俺が初めてドクターに出会ったのは俺が18か19の時だと思う。割の良いアルバイトを探して、定期的に喫茶店のアルバイトをしたり世論調査のバイトをしていた頃だ。
いわゆるナイトクラブでのバイトを見つけた。夕方5時から12時の拘束であるが実質はまあ4時間程度だっただろう。日給5000円は当時の大学生には高給である。内容はと言えばオードブルを運んだり、ボトルや氷を運ぶだけである。もちろん膝をついてサーブするのである。
暇な時はカウンターの中で、ゲン付(この字で正しい?)でお客さんの高いお酒を一杯頂戴して飲んだものだ。
そんな時代に、ドクターは、飲みに来たのだ。それもシートに座ってホステスさんと飲むのではなく、カウンターに来て。
聞けばご自身の歯科医院がクラブの前にあるとの事で、まず一杯ひっかけて繁華街に出陣と言うことだったのだろう。それにしても駆けつけ一杯がクラブのカウンターでなくてもと今でも思うのだが、ともかくそれが出会いであった。よく考えれば当時のドクターは40半ばのバリバリの壮年時代であろう。それにも関わらずギラギラさが俺には感じられなかった。同世代の男どもが交際費や会社の金でホステスさんを口説いていたのにである。

その後、クラブは潰れ、ママはお客さんと結婚して新しいスナックを始めたのであるが、結局は離婚して店も手放すことになった様に記憶している。このママの話もいろいろあるのだがここでは止めておこう。
当時は携帯電話がまだなかったので、飲みに行っている人を探すのには「指名手配」が掛る。すなわち、行きそうな店に電話をするのである。だいたい弥生町界隈で飲み歩いていると行く店や梯子する順番が分かってくる。
ドクターの場合も診療後のコースがいくつかあった様である。サウナに行く日のコース、ボーリングの日のコース、家族と外で夕食の後のコースなどなど。
クラブが潰れた後にママの新しいスナックを手伝ったが、そこも代替わりがあったので、新しいバイト先を探していた矢先、「敏江の部屋」というスナックでバイトするようになった。そこの凄さは、スナックという枠を超えていたように思う。常に女の子が10人位いて満員が2−3回転するのである。当時、鳥取市でベスト3であっただろう。当時のママはまだお酒を飲んでいたしタバコも吸っていた(今もタバコは吸う)。内臓が弱いこともありいつも近くの内科で鎮痛剤を打っていたように記憶している。時には営業時間中に注射を打ちに出かけていた。そのスナックではバイトの学生はカウンターの中で水割りを作ったり、突き出しを運んだりしていた訳であるが、メインは女の子が話をするまでの場つなぎの会話も重要な仕事であった。特に霞が関からの出張族や大企業の鳥取支店幹部や公務員、企業幹部が多く、人を見る目はここで無料で(給料もらって)教わったようなものである。

ママが認めるお客は確実に偉くなったし、認めないお客は確実に落ちて行ったように記憶している。最近、このママ(現在銀座で飲食店をしている)がいみじくも言った事は「偉くなる人は真面目」だということである。当たり前のことが当たり前に出来る人が偉くなるのだろう。そして当時のお客さんは空気を読めたというか、満員でお客さんが来ると、すっと会計を済ませて次の店に移るのである。確かにバブルであったのかもしれないが、暇な店は沢山あったように記憶している。
その「敏江の部屋」もドクターの巡回コースであり、多くの歯科医や医師も訪れていた。
ドクターはいつも店がはねる(11時半)ちょっと前に来て、水割りと剣先するめ位で話をして、ママや女の子やバイトの子を連れて階下の炉端焼きや寿司屋(浪花が多かったかな)に行って飲み食いしたものだ。どちらかというと女の子より俺の方が多くお供したと思う。
その後は「一心」「はなじまん」など今もしっかり営業しているお店で旨いものをつまみながら一緒に酒を飲んだものだ。
そうそう、浪花寿司の前に「志げ道」という割烹があり、旨い刺身や煮付け、さらにはマムシの生き造りなんかを食べさせてもらったな。
あとスナック「すが」でも働いたのだが、やはりこの店もママが凄く出来た人で良いお客さんが多く勉強になった。この店も医師や歯科医が多かった。また企業人も多かった。
美人のお嬢さんがいて、結構一緒に遊んだものだ。

あとドクターと良く行ったのは「潤」というカウンターバーで、今も場所を移して営業している。マスターは俺を忘れていたが、相変わらず若造りでハンサムであった。告別式のネット配信にも花を手向けるマスターが映っていたな。
いろんな店に行き、名前も忘れてしまった店も多い。
「中山」という割烹では、ドクターと二人で店にある松茸を全部食したこともあった。
一度大学を卒業し東京で大学院を終えてなんとか職についてドクターにお礼の意味を込めて一晩の払いを全部俺がすると宣言したことがあった。
店の人が皆いきさつを知っているので、まけてくれているのがアリアリなのだが、すぐに6万円位になり降参した。当時ドクターは付け払いをせず(いつもしない)、毎回どの店でも現金払いであった。多くの同業者がつけで飲んだり、プロバーさんが支払っているのにである。そして店でたまたま会った県外の人なんかにも美味しい地元の魚やカニを惜しげもなく振舞うのである。

自分は大学院時代に結婚した訳だが、本来の新婚旅行は俺のケニアに調査のついでに連れて行こうと思っていたので、とりあえず沖縄にした。そして那覇からの帰りの便を大阪経由鳥取そして東京にした。(結局、子供が出来てケニアは俺だけだったが)
鳥取ではドクターや敏江ママがアレンジしてくれて多くの弥生町関係者がお祝いに駆けつけてくれて良い宴会が出来た。その時の写真がなぜかないのは飲み過ぎていたせいか。
宿泊は鳥取ニューオータニのスイート、前回泊まったのは皇后陛下だとの事だった。(慌てて従業員が清掃を始めたのを記憶している)
結婚式の時の宿泊はやはり敏江のママが帝国ホテルのスイートをプレゼントしてくれた。
確か東京でサミットがありニューオータニが取れなかったとか言っていたな。その帝国ホテルのスイートも六本木での3次会が長引き結局は3−4時間位しか滞在しないで沖縄行きの飛行機に乗った記憶が。

大学院を出た後もドクターのお嬢さんの一人が東京で仕事をしている関係やボーリングの試合の関係で東京に来た折には飲みに連れて行ってもらったものだ、本来はこちらが接待せねばいけないのに。
一度倒れて、診療をお嬢さんだけに任せた事があるが、リハビリで回復して復帰した。その後も酒を愛し、たばこはやめていたかな(ロングピース派)、回復祝いをした。

昨年の3月再度倒れたが、歩行訓練するまでになり、冬には温泉病院に移ってリハビリを続行するはずであった。だが誤飲性肺炎となり、胃ロウを装着し再度寝たきりになってしまった。3月14日に日帰りでお見舞いに行った際も桜の時期には意識も戻るものと期待していた。その日は奥様と長女と一緒に遅めの昼食を「たくみ」で取ったのだが、いくら食べても満腹にならなかった。生まれて初めての経験である。今思えば、ドクターが自分の分まで俺に食わせてくれたのだと思う。

そして23日、日本からは娘の芸大合格の知らせが携帯に届いた(日本時間の正午過ぎ)、そして、その事をメイルで銀座のママにも報告しておいた。その返事がドクターの逝去を知らせてくれた。さらにドクターの二女からもメイルで午前4時前に亡くなったことを知らせてくれた。娘の合格発表の前に息を引き取っていた。ドクターも沢山の油絵を描いていた、スポーツも愛していた、そして酒も酒場も。
生老病死は普遍である。だからアンチエイジングなどには興味がないが、人間未完成のおいらには不条理と感じた。自分の父親もおいらが30歳の時に亡くなった、親孝行ができると思い、やっと中古の家を韮崎に購入した矢先に。父親の死には立ち会えて、亡くなったすぐの顔は、こんな笑顔を見たことが無いというほどの笑顔をしていた。ドクターのお嬢さんもドクターが亡くなった後の顔は凄い素敵な笑顔だと言っていた。今頃、俺の親父とドクターは天国で酒を酌み交わしながら、馬鹿息子のことを肴に酒宴なのであろう。
内山節さんが時間に関する話のなかで、直線的に過ぎる時間には蓄積がない、循環する時間にこそ知恵や経験の蓄積を伴う流れがあると言ったと記憶している。ある種、山岳信仰的かもしれないが、死んだものは山に帰り、また里に戻ってくると。
いつの日か、あるいはもう自分の横にドクターも親父も姿を変えて現われているのかもしれない。

恩返しという、ヒトとヒトとの循環する時間の中で、永遠なる時間を漂いたいと、西アフリカの地で記憶を小さな蓄積に替えてみた。