図書館本

田中氏の森林関係の本はおそらく全部読んだ。
多くの本はなんらかの得ることがあったのだが、この本は全くの期待はずれである。
感想から言えば、割り箸はやっぱりもったいない。のである。
端的に言えば、日本で生産される割り箸と中国から輸入される(全輸入割り箸の98%を占めるらしい)割り箸の話が混ぜこぜなのである。さらに矛盾が沢山。
まず、日本の吉野での割り箸生産は建材加工である背板で作っているそうだ、それなら確かに廃材利用に近く、資源の有効利用であろう。この箸で末端で10円程度だそうだ。また吉野では和紙づくりが廃れて、戦後割り箸作りに移行したとのこと。
ところが杉の中心部の赤い材を使い、和紙の箸袋に水引きがついたりすると料亭で一膳2000円にもなる。まあこれは庶民にはあまり関係ない話。
実際我々が使う割り箸はどのように作るのか。ロータリー法と言うらしい。大根のかつら剥きの要領で丸太を薄くスライスしていき、割り箸にする。すなわち廃材を使う訳ではない。丸太を使うのである。
割り箸が好まれる理由を田中氏はこう説明する。
清潔と言う点をあげ、不特定多数の客が使う外食の現場では、これが問題となる。とくに発展途上国では、肝炎やエイズ、最近では中国を苦しめたSARSなどのため、衛生観念の普及は焦眉の急とされている。田中氏は感染症を少しは知っているのだろうか?塗り箸から肝炎やエイズが感染した論文でもあるのだろうか?
さらに、塗り箸の洗浄と消毒には、多大な手間とコスト、それに現在なら環境負荷も掛かることが指摘される。なかには不十分なものが、再び食卓に上がることを覚悟しなければならない。事実、町の食堂を介した肝炎の流行などが伝えられたことがある。 さて誰がいつ伝えたのだろうか?塗り箸やMy箸利用を脅迫しているのであろうか?しっかりした医学的根拠を示すべきであろう。
さらに、日本で割り箸が広く使われる理由は、食べる直前に自分で割る、それ以前には誰も使っていないという「清浄性」が受けたことだ。そして、使い捨てゆえに非日常の気分が味わえる要因もある。日常生活ではないハレ(古くは祭りなどの神事)の食事では一度きりの箸を使うのが日本の伝統なのだ。割り箸は、そんなハレの日の食事を連想させる。
とうとうハレまで出して割り箸伝統論である。割り箸の現状が非日常だと本気で考えているのだろうか?ついには“穢れ”の思想まで持ち出している。
後半部分では「使い捨て社会の象徴として」割り箸を使わないという意見もある。この意見こそ不要論者の最後の拠り所らしい。しかし、あまりにも志が低すぎないだろうか。すでに見てきた通り、割り箸の環境負荷は小さく、産業規模も弱小だ。それを攻撃することに何の価値があるだろう。弱いものいじめというよりは、八つ当たりである。中略、紙皿、あるいは過剰包装も一向に大量消費は減らない。果たしてMy箸の持ち主は、買い物の際に過剰包装を断っているだろうか。結局、使い捨て批判は、妙に割り箸に偏った運動なのだ。
ここまで来ると田中氏の論理も何もない、開き直りと逆切れでしかないのではないか。賢い読者なら簡単にご理解いただけるであろう。
そんな訳で自分は割り箸を使わない事に決めたわけである。もちろん、日本製の廃材利用の割り箸を洗浄して使うことはやぶさかでない。

割り箸はもったいない?―食卓からみた森林問題 (ちくま新書 658)