図書館本


2004年から2006年にかけて種々の媒体に発表されたエッセイ。
そんな訳で、初めて読まれる方にはある種繰り返しが多いように感じられるかもしれない。
臨床医師として、文学界新人賞、芥川賞と華々しい流れの中に身をおいた南木さんではあるが、終末医療に携わる中でストレス障害からうつ病へと体調を崩されていく。書くことも読むことも出来ない中で、徐々に、生かされている自分を見つけ出し、医師として、また作家として復帰する。個人的には病気から復帰後の作品に強く惹かれ、己の心の波長に同調する。

いくつかの心に残る言葉。
 五十歳すぎてようやく日本史の勉強を始めている。そもそも日本という国名がいつから用いられるようになったのか。そのあたりを論じる書物を読んでいると、家の前の見慣れた田園風景すら微妙に様相を変えて身に迫ってくる。 p89
 小説を書き始めたのは、医師になって二年目あたりで、人の死を扱うこの仕事のとんでもない「あぶなさ」に気づいたからだった。危険を外部に分散するために書いていたつもりだったが、それは内に向かって毒を凝縮する剣呑な作業でもあった。 p106
 だから若月先生を「農村医学の父」だとか「現代の赤ひげ」と無邪気に称する気にはなれない。しかし、この病院に来なければ、高邁な理想と酷薄な現実が医療現場でどのように折り合いをつけるのか、という、大人としての最低限身につけねばならない教養(生きる知恵)を得られなかったと確信している。 p113
 腕の方は町が主催する鮎釣り大会で準優勝するところまでいった。けれど、いかに鮎釣りに熱中してみても、人は必ず死ぬ、とのあからさまな現実を見つめざるを得ない業の深い仕事は、身の内に悲観ばかりを増殖させ、やがて、生きているのが精一杯の精神状態にまで追いつめられた。 p127
 さびしくもならず、落胆もせずに阿弥陀堂の敷地を出るとき、古木の下になにげなく置かれた等身大の石仏のおだやかな表情に驚かされた。生まれる前からあったはずなのに、何度もこの前を往来していたのに、どうしてこんなにも品のある温顔に気づかなかったのだろう。齢を重ねないと見えてこないものはたしかにありそうで、そういうあたりまえのことが五十も半ばになるまで理解できなかった事実にあきれ、再び驚く。 p133
 いま、亡き祖母にしみじみ感謝したくなるのは、そういう形にあらわれたさまざまな心遣いではなく、質素で平凡で、他人の悪口を言わずに営んでいた静かな暮らしのなかにわたしを置いてくれたことである。  p137
 遺影を抱きながらこれを聞いて、地位や名誉とは無縁の場で最後までみなに慕われた祖母に育てられたことを、腹の底からありがたく思った。 p138
 人は変容する。変容しなければ生き延びられない。四十歳のころは階段を昇ると息を切らしてしたわたしが、奥穂高の山頂で、からだの芯から湧いてくる涙を流しっぱなしにしながら得た実感である。 p155
からだのままに