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週刊新潮連載のコラム「人間自身」2005、7月〜2006、7月
帯 インターネットなんかいらない。もし本当を知りたいのなら、考えることだ。

似非考える振りをしている自分が恥ずかしく思う。
備忘録メモ
子供は哲学する
 なにしろ、大人の中にだって、考えている人は滅多にいない。誰も何かしらは思っているのだから、自分は「考えている」と思っているが、とんでもない。そんなのはたいてい、文字通り「思っている」だけである。あれこれ思い悩んだり思い煩ったり、そうでなくとも、計画したり検討したり勘案したり、しかしそういうのは、「考える」のとは違うのである。いや私は「考える」の話を、そのように使わないのである。私にとって「考える」とは、「精神が本質を洞察する」という以外の何ものでもない。
人生は暇つぶし
 いかな苦労でも、何もないよりマシである。何をもってしてでも、人生が暇だということを忘れたい。だから、人生に絶望するということすらも、じつは人生の暇つぶしなのである。絶望しているぶんには、人生は何ほどかのものであり得るからだ。
探すのをやめよ
 若者は型にはめるべきである。「自分さがし」という不毛を封じるために、彼らには型が必要なのだ。元服の儀式がその典型である。今さらそんなことを言えないから、禅寺にでも放り込むか。
見たいもの見えるもの
 先日、養老孟司氏と対談した時、「誤解して割を食うのはその人だ」と言っていた。完全に真理を掴んだ人の言葉である。「だから人を見る眼が大事だ」とも。それくらいの人になると、そうは言っても、見方はどうも同じようだ。
お金を稼ぐという子供
 子供向けの投資教育セミナーも大盛況で、参加した子供が言うには、「お金持ちになりたい。貯金が五十万になったらデイトレードを始め、一億円稼ぎたい」端的に私は、死にたいと感じた。この世の中に、これ以上生きていたくない。
 子供に株を教え込んでいる親の言によれば、「お金は生きる上で大切なのに学校では教えてくれない」 馬鹿もほどほどにしなさいよ。生きる上で大切なのはお金ではないと教えることが教育なんでしょうが。
エイジングはおいしいぞ
 ゆえに、老いることの拒否とは、人生を生きることそのものの拒否である。若さをのみ人生の価値とし、老いを反価値として拒否する人は、人生の価値を得ようとして、じつは人生それ自体の価値を、まるごと失っているのである。
選挙だってさ
 しかしとくに近代国家の形成以後、人は、人生そのものを政治に委ねるという転倒を起こしてはいないか。何のためのよりよい生活なのかを忘れていはしないか。やっぱり自分が賢くなる方が先なのである。
学力いらない
 言うところの「学識経験者」という人の中に、賢い人がいたためしがない。学力なんて、しょせんそんなものである。それがわかっていて、なお学力教育を推進するなら、国は国民に賢くなられては困るのだ。そうとしか思えない。
株取引知らない
 たぶん、「仕事」を「ビジネス」と言い始めたあたりから、人はおかしくなった。日々の糧を得るために地道に繰り返す仕事、そういう意味合いが、何か浮ついた、人生から遊離したものに変化したのである。
大変な格差社会
 先に私は、「国家の品格」よりも「人間の品格」の方が先ではないかと書いた。人は気づいているだろうか。「品格」の「格」は、「格差」の「格」である。位、クラス、グレードの「格」である。人間の品格には確実に差がある。我々は、本当はそちらの格差こそを問題とすべきなのである。中略 なるほど、その意味で、「格差社会の到来」は当たっているかもしれない。金の多寡などは僅差であるが、品格の格差は雲泥である。あの人は下品格階級の人だ。うんと差別的に人を見るようにしたい。
何用あって宇宙へ
 「何用あって月世界へ」。山本夏彦翁は言った。用もないことを考えるのは、謎を見てしまった人の定めである。だから私は、その意味での科学者のパッションは認めはする。けれども、もう一回りして、やっぱり私もそう言いたい。科学って、馬鹿よね。
あとがき
「知ることより考えること」とは、決して知ることの否定ではありません。考えるとは、本当のことを知るために考える以外であり得ない。しかし、きょうび「知る」とは、外的情報を(できるだけたくさん)取得することだとしか思われていない。取得するばかりで、誰も自ら考えていない。だから世の中こんなふうなのであります。あえて紛らわし
タイトルとなった理由です。小林秀雄の名講演、「信じることと知ること」、参照いただければ幸いです。2006年9月
知ることより考えること