献本

1963年生まれの元ロイター特派員の徳本氏の戦前戦後の日英外交文書の調査(英公文書館等)と、その当時の外交上の登場人物の動向を元にして昭和を紐解く。
自分の読み込みが足りないのかもしれないが、多くの外交文書は公開時期が決まっているので(機密度により公開の日時が規定される、佐藤優氏の最近の著作にあるような、橋本―エリティン川奈会談の内容のように)、本書の機密度がどの程度かは分からないが、英国政府の日本に対する昭和と言う文脈での評価、あるいは想い入れは感じ取れる。そして、その文章が示すように、結局はその文章を作り上げた個人あるいは組織の感情抜きには歴史は動かないということである。

登場人物としては、昭和天皇、天皇の弟 秩父宮、戦前の駐英大使そして占領期の首相であった吉田茂、吉田の右腕としてGHQと対峙した白洲次郎、駐日英国大使クレーギー(1937-1942東京)
秩父宮 1925年7月7日英国着 オックスフォード留学 1937ジョージ6世戴冠式出席
白洲  1919-1929 英国 ケンブリッジ

英国のロイヤルファミリーと日本皇室との繋がりの深さも、種々の文書や実際の交際の中で見えてくる。

チャーチル 1943、9月19日 イーデン外務大臣に送ったメモ 「日本の攻撃で、米国が一丸となり参戦したのは天佑だった。大英帝国にとって、これに勝る幸運は滅多になく、真の敵と味方が明白となった。日本が無慈悲に破壊される事で、英語圏と世界に大きな恩恵を与える」

クレーギーの最終報告書(1942)の中で、天皇と中心とする「穏健派」に注目し、彼らに軍部「急進派」を牽制させ対英米戦を回避しようとした事を強調した。近衛首相とルーズベルト大統領のトップ会談計画を天皇自らの指示だったこと、日米交渉で米国が何らかの妥協をすべきと報告しながら、本国政府が無視したことを指摘した。真珠湾攻撃直前の11月20日、日本政府が米国に渡した和平提案は、天皇と穏健派の最後の賭けだったとして、それを拒絶した米国政府を強く非難していた。そしてもしアメリカが強硬姿勢を変えていれば開戦が少なくとも開戦が3ヶ月遅れ、この期間にドイツ敗北の可能性が出れば、対日戦争を回避する可能性も高まったはずだ。と書いているそうだ。歴史にIFはないが、そのIFが戦争を回避出来たのならと我々は考え、後世に歴史を伝えなければいけないのだろう。

また外交と言う文脈では、ハルノートにより開戦不可避であると外交上での解決に失望したとされる当時の外務大臣東郷 茂徳の孫である東郷和彦(元欧亜局長 近著 北方領土交渉秘録  新潮社 2007)がやはり北方領土交渉で大きな失望を味わったのも歴史の事実なのである。

第2部では戦後編として、皇室危機、天皇改宗、退位計画、皇太子攻略(家庭教師派遣問題など)が綴られている。また白洲のあまり語られない商売上の軋轢なども書かれている。

いくつかの書が主要参考文献として最後に挙げられているが、立花隆氏の「天皇と東大」が挙げられていないのはなぜなのだろうか?と思った。戦前戦後の皇室とそれを取り巻くアカデミックと軍部の関係等がかなり詳しく書かれていたと思うのだが。

おまけ
公文書で見る日米交渉-開戦への経緯-  http://www.jacar.go.jp/nichibei/index.html
本邦の公文書館 http://www.archives.go.jp/


英国機密ファイルの昭和天皇
Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/ルポルタージュ