図書館本
週刊新潮のコラム、2004−2005、41歳の哲学の続編

連載と言うことだろうか、かなり下世話な話にも池田節炸裂と言う感じで面白い。
携帯も持たず、パソコンも触らず、テレビもあまりみない池田女史が想いのままに世間を切る。やはり養老孟司さんに似ていると思う。

言葉と言うありふれた記号の大切さを、ネット上のブログなどのタメ口的な感情的な言葉と対比して、顔が見えないと言えない言葉が理性の言葉と指摘する。そして「私は、顔がみえなくても、いや顔が見えないからこそ、理性の言葉のみを書くように努めているが、これは慣れると、清々しいものですよ。言葉を大事にするということは、自分を大事にするということに他ならないのですから」p16

さて本書(14歳からの哲学、フランス語訳は出てないようだが、多言語訳は多いそうだ)、自分が正しいと思い込んで世界を席巻するアメリカ人と、その子供たちにこそ読まれることを、望むのである。まあ無理か。 p31

ふと思う。どうだろう、人類規模の記憶喪失。中国と日本が戦争した?覚えてないねえ。歴史認識?なんだそりゃ。そんなふうであったなら、我々はどんなに自由であるか。自由を他人に求めることで、我々は誤るのである。人は言う、「自分の自由」。そうではない。本当の自由とは、「自分からの」自由である。自分が誰かであることを、何かに求めるのをやめることだ。p43

本来、老人の知恵とは最も豊かなものであるはずだ。これを放っておくという手はない。だから、少子化よりも先に憂えるべきは、自らの老醜なのである。p54

人は、物語がほしいのである。このことはこうだから、こうなるのだという物語がほしい。物語がなければ、人生は何事でもないからである。何がどうしてどうであると、言うことは出来ないからである。では人がそれを言葉で言う、物語を欲するのは、なぜなのか。中略 思うに、人生に物語を求めるとは、人生は何事でもないという自由に耐えられないからである。人は、言葉によって規定されたい、縛られたい。人間は言語のマゾヒストなのである。p146

若い女性記者が事故の取材に際して感じたことを質問する場面で
「大勢の人が死んでいるというのに、集まった人々は、助けもせずケータイで写真を撮ってはしゃいでいるんです。これをどう考えたものでしょうか」
それは、あなた方メディアのおかげです。メディアのおかげで、人々は、他人の不幸をショーとして楽しむという趣味を覚えたのです。メディアは野次馬の親分ですからね。何か不思議ですか。中略 自分を別にした正義の追及は、必ずや自分に帰ってくるのである。メディアの正義はいつも自分が別である。他人を批判できるほど、あなたはどれほど正しいの。メディアがメディア批判するとは思えませんからね。まあ、頑張ってください。取材で感じた自分の疑念を記事にしたいという若い記者を励まして、私は電話を切った。どうかその感性、磨耗させないで下さいね。なんてことを書いた文章を、平気で載せてくれるから、「週刊新潮」は偉いのである。 p167

勝っても負けても 41歳からの哲学