森林保全と持続可能な管理 6月9日(土)
 広範な分野から専門家が集まり、林業を含む現状の森の問題点や今後の方向性を話されていた。
 森を支える山村の崩壊、未だに続く林道開発による自然破壊(沖縄を例に)、環境税や森林税に関する現状での動き、環境保全とコストパフォーマンス等々。
 質問は記述方式で行われた。おいらの質問(管理をしないという視点は必要ないのか?)にも何人かの先生が答えたくれた(笑)
 面白いと感じたのは速水さんの発表。その中の2枚のプレゼンを下記に。
速水林業代表のプレゼン
 森林と光
1. 植える、伐る、光の管理
2. 常時林内に光を取り入れる
3. 下草や広葉樹にも届かせる

林業経営の今後
 育林作業
  生物としての樹木
  既存の育林体系からの脱皮
  間伐で広葉樹、下草など多様性を誘導
  合理的で積極的な木材生産と再造林

 原則
  山村の豊かさの新基準
  科学的に森林を扱う
  森林所有者では林業は出来ない


文化遺産を未来につなぐ森づくり「もり、こころ、わざ」  6月17日(日)
 参加者があまり多くなかったのが残念でした。また質疑応答もありませんでした。

提言の説明を元林野庁長官で某信用基金の副理事長がされても。。。なんら最近の林野スキャンダルに言及せず。
その後の「古事の森」を説明した林野庁の若手は、緑資源のお詫びからプレゼンを始めたのは好感が持てたが。

そして素晴らしかった講演はこれ
宮城泰年(聖護院(本山修験宗総本山)門主(75歳)
 修験(しゅげん)から見た日本のこころ

 樹に神佛の姿を見、風の音に般若心経の心を観じ、水の流れに命を見つけ、「六波羅蜜」(布施、精進、忍辱、持戒、智慧、禅定)のこころを一緒に歩いていている修行仲間に教えられ、菩薩の行いをみて目からうろこが落ちる。
日本古来の山岳信仰は仏教渡来以前である。祖霊信仰の行き着く先は山、山が荒れるのは祖霊の怒り、山火事や噴火の恐れ、日照りによる渇水や大雨の洪水、神となった祖霊に使える里人の心がけにより潤沢な水利を保証する素朴な山の神が居り、火も治まったのである。特に農耕民族にとっての水信仰は山岳信仰と深い関係を持つ。麓から拝される山はやがて神と同化しようとする山人を迎え入れるようになる。「役行者(えんのぎょうじゃ)」(634-701)がその代表的存在であり、この頃は異国の仏が日本の市民権を得た。
仏教の伝来(538)とともにもたらされた仏像は異国の神であり「蕃神(ばんしん)」と呼ばれた。元々あった自然神と仏は融合し、形ある神が生まれ山の木や岩、総称して「杜」は曼荼羅世界の一部となって、やがて吉野曼荼羅や熊野曼荼羅が組み立てられる。(神仏習合)
修験の世界にあるのは自然に向ける目である。対象としての自然ではなく、自己も自然の一部分として認識する。役行者が山や岩窟を背景に、守護の八大童子や獣たちに囲まれている図はそれを表していると伝える。
山を傷つけることは間接的に私を傷つけることであり、神仏を傷つけることになる。靡八丁斧不入(なびきはっちょうおのいれず)の掟はその世界をいかに大切にしたかと云う証左であり、江戸時代、無断で奥駈道の伐木した詫び状や始末書、あるいは伐木許可を求める文書が多く残っている。
水戸藩・岡山藩の神仏分離政策と寺社の整理(破却)。明治政府のとった神仏分離・修験宗は廃止、諸々の政策は、山や杜に何を残したのか。聖(ひじり)たちの消滅。宗教文化遺産の消滅散逸。神社の統廃合と自然林の消滅。人々の精神性をいかに変えたか。家庭から神仏放逐の現代に。
本当に「美しい国土」とは。ともに考えよう。
(ここまで宮城さんの資料のまま、一部読み方を記載)

多くの神々が現代と言う時間からいなくなっている(水神 etc)、宮城氏はそんな現状を危惧されている。
日本書紀の中にも森の起源や木の用途書かれていて、馴染み深い木々(ヒノキ、スギ、マキなど)が登場する。

植樹祭などでも、神が帰ってくる場所を創るような流れがあってもよいのではないかとおっしゃってました。