備忘録として

料理人の無記
言葉にならない味わいを何とかして精緻に表現しようとするのも人間の立派な文化であるし、私に新イカを食べさせてくれた寿司職人のように無記を貫くのも、また一つの立派な態度であろう。 おいしさは言葉で表せるのか否か。この一見他愛のない質問の裏に、人間の行き方における案外重要な問題が見え隠れするのである。
グローバリズムと脳内快楽主義
お金を払って高級レストランに行くのもいいが、森の木々を見ながらほんのりと塩からいおにぎりを食べるのもよい。グローバリズムへのオンとオフが、同時に、脳内の進化の痕跡のオフとオンにつながり、脳内快楽物質を分泌させるのである。
旅することで出会うスローフード
郷に入れば、郷に従うのが良い。その土地の食材だけしか食べないというのは、不自由なようだが、その歓びは深い。考えてみれば、不自由さこそ、人間の生きる歓びの根幹である。自分の身体が気に入らないからといって、交換するわけにはいかない。身体を交換する代わりに私たちは旅をする。旅をすることで、その土地に包まれる。そして、大地に包み込まれるという儀式は、その土地のスローフードの恵みを味わうことで、初めて完結するのである。
ダ・ビンチの「最後の晩餐」
なぜ最後の晩餐なのだろう、とミラノの街を歩きながら考えた。中略 キリストの生涯の最後を飾るドラマは、なぜ食卓で起こらなければならなかったのか?ここには、「食」ということの根源的な意味が隠されていそうだ。
「マスター星が綺麗だね」
茂木さんと養老先生の出会いは、なんと1997年の「脳とクオリア」を養老先生が書評したことからなのだそうだ。僕はてっきり在学中からの知り合いだと思っていました。
この文章の中で養老先生の逸話として、湯島のバー「エスト」でのマスタと茂木さんとの会話。
「ええ、養老先生よくいらしてましたよ」
「あの頃は良くお飲みになって。ある時、ふいっと姿が見えなくなったから、あれ、と思って店の外に出てみると、養老先生前の道の上に大の字になって寝ていらっしゃいましてね。養老先生、どうされました、とお聞きすると、先生は「いやあ、マスター、星がきれいだねえ」とおっしゃられました。」
私(茂木)はそれを聞いて、大切な人生の宝物を一つもらった気になった。
縄文から宇宙食まで
食は、今後もポップに進化していくだろうが、その基底には縄文時代と変わらない自然の営み、他の生命の尊い犠牲があることを忘れないでいたい。この世に神がいたとしても、そう簡単にはマナを降らせてはくれないのだと、肝に銘じなくてはいけない。それに、何といっても、自然の中で塩味の利いたおにぎりを味わうのに勝る人工的食環境は、そうはありはしない。文明も心地よいが、時には自然の中に戻って、今は遠き縄文時代に思いを馳せよう。 マナ:モーゼの祈りに応じて神が天から降らせた食べ物。

贅沢の象徴としてのたき火
たき火は私たちが失ってしまったものの象徴であり、食べ物が単なる栄養物にとどまらず、私たちの魂の成分を変えてすまうような形而上学上のマテリアルであることを、もう一度思い起こさせてくれる縁(よすが)なのである。
都会人よ、文明を発達させてしまったことで自らに閉ざされてしまった快楽の数々を思い、戦慄せよ!