備忘録として。

戦争が仕事になっている現代、私たちは労働をどのように捉えておくべきか、考えさせられます。内山さんは特に自然とのかかわりの中での労働を自分が上野村に住んだ経験から考察しています。根本的な部分は養老先生の思想と全く同じではないかと感じました。脳化してしまう社会(労働)の脆弱性は体を使って感覚を自然の中で取り戻すことでしか再生しないのだと。

戦争という仕事

はっきり述べてしまえば、アメリカは先住民を抹殺という恥ずべき行為の上に成立した国である。だがその恥を認めることは、建国自体が不正であったことを認めることにつながる。たとえこの過程で少々の問題があったことは認めても、建国とその後の歴史は、文明の偉大な発展として肯定する他にないのである。そしてそれを肯定するかぎり、自分たちに同調しない異文化の社会はその記憶をふくめてその社会に自分たちの文明を提供しながら、その文明の支配圏を拡げ資本主義の利益と合致せるという方法も、アメリカ的自由を守る武器として肯定されつづけることになる。私は現代の戦争の出発点はここにあると考えている。p37
労働に対する動機と「信用を高める」ことが結びつかなくなったとき、日本の社会は、真面目に働くことの意味を見失ったのである。その結果、多くの人たちは真面目に真剣に働きたいのに、その情熱をむけることのできる仕事がみつからないという今日の状況が生まれた。p78
18世紀後半のフランスの経済学者ケネーは、農業だけは富を増加させていると主張した。それは農業には自然の生産力が加わっている。彼は社会の富の総量は自然の生産力によってもたらされた以上にはふえないと考えた。p82
確かに日本の精神文化では、自然と人間の関係が微妙だった。人々は自然の世界にある種の理想を感じながら、しかし自然の一員に完全にはなりきれない自分たちを知っていた。そこに生まれる間をみることによって、自然とともに生きる人間の精神をつくりだした。そして労働と間の連続性を感じることによって、労働のなかに、肉体の消耗だけでは終わらない楽しさや働きがいもあることをみつけだした。とすると、間を大事にした日本の精神文化も、自然や労働と結ばれていたことになる。p122
精神の奥に、私たちのつかめない何かがあると考えたほうが諒解しやすい現象がいくらでもあって、それをどう考えたらよいのかを、今日ではいろいろな分野の人々が迷いはじめたのである。それに生命という名称を与えるのか、魂と呼ぶのかとはともかくとして。おそらく、こういうことなのであろう。生き物たちは、生命の交歓のなかで生きている。もともとは人間も、自然のなかで同じように生きていた。その頃は労働のなかに生命の交歓があった。ところが、労働のなかに自然がかかわらなくなったとき、生命がみえなくなり、自分の生命をもつかむことができなくなった。ここに現在の私たちがいる。p125
農閑期に農家の人を雇っていた土木会社の経営者は農民の目と能力を生かした道が出来た。しかし農業の機械が進み、しかも農業では生活できなくなってくると、社員は通年雇用を望むようになった。そして普通の会社になってしまった。会社の経営者は「どうしたらよいのか」「これでは村の土木会社である価値がない。村の土木会社が、村の自然も、村における農の営みもこわすような仕事をしている現実を、どう直したらよいのか」彼の話を聞きながら、私は、本当は自然を改造する仕事は、その地域で自然とともに暮らしている人々だけに与えられるべきなのかもしれないと思った。もちろん、その設計や工期の設定も含めて、である。今日の私たちは、自然をみることができない仕事をしている。それが人間の労働能力の大事な部分を失わせた。私たちの暮らす時空が人間だけによってつくられているのではなく、自然と人間の相互性によってかたちづくられている以上、自然がわかならないことは労働能力の低下である。問題は、市場経済はそのことを視野に収めないシステムだ、ということのほうにある。p128
人間のためという思い上がった「善意」が、いろいろなかたちで現代世界を徘徊する。イラクの人々に自由と民主主義を、つまり文明の発展を与えるという「善意」が、戦争というかたちをとって、イラクの人々の暮らしを破壊しつづけていること、技術が人間の文明を発展させるという「善意」の間には、基層的な発想の共通性がよこたわっているといってもよいだろう。自然に影響されることは不自由と考え、自然の影響から自由になることを発展と考える発想を底において形成されてきた現代技術は、自然と人間の橋渡し役になれないばかりか、自然にとっては凶器になりかねないという性格を持ちつづける。p140
資本主義は原理的には何の倫理性もない経済システムである。せいぜい法に触れないように注意を払われるだけであって、だからこの経済システムからは、たえず腐敗と不正、不法が生まれつづける。p192
資本主義批判は、近代がつくりだした世界全体への批判と結びつき、人間のあり方を根本的に問い直しながらすすめられている。ある人たちは、自然との結びつきを取り戻しながら、自然を忘れた近代的な人間のあり方を問い直し、そこから資本主義批判をも視野に収めようとする。またある人は他者との関係をつくり直すことによって、あるいは経済合理性だけによらない働き方をつくることによって、資本主義を内在化させた近代的世界全体と向かいあおうとする。現代とは、新しい視点から資本主義批判を生みだしつつある時代。私はそんなふうに感じている。p204
上野村における「仕事」と「稼ぎ」に関しての内山さんの考察。「稼ぎ」は一軒一軒、一人ひとりのもの、つまり個人主義的なものである。しかも「稼ぎ」を効率よく実現させようとすれば、自然に敵対する行為も生じかねない。共同的な精神が失われれば、共同体が分解してしまう。おそらくこの様な現実を経験していくうちに、生活を守るためには「稼ぎ」も大事だが「仕事」はもっと大事だという気風をつくりだしたのだろうと思う。村という永遠の世界と結ばれているのが「仕事」であり、そのときどきによって変わっていくのが「稼ぎ」である。 ここで仕事とは村での種々な共同的作業をいう。p260
作るから「残す」へ。群馬県の二十一世紀プランの策定にあたって。百年後を考えると作ることのほとんどが意味を失う。そこで「残す」計画へ変わったそうである。そこで産業政策としては次の二つだけが書かれているそうだ。ひとつは農業、林業などの一次産業を守り、残す。もう一つは私たちはどんな仕事のシステムを作ったら、真面目に働けば働くほど自然や環境が守られ、地域社会が活き活きとした社会になり、豊かさを感じられるような家族が生まれていくのか。そういう働き方を見つけだすことが労働政策の基本にならねばならない、と。p316
戦争という仕事