時代の流れで、消え去ってしまう風俗や民俗、出来る限り残していきたいものです。

以下記事

【森と水の国から】<4>富士川の伝統

2007年01月12日朝日
「ここに舟運の河岸(か・し)があってねえ」
「100年前は支流の釜無川と笛吹川は、向こうで合流してたんだ」
5日の昼下がり。望月誠一さん(65)は鰍沢町の富士川を訪れた。川伝いに歩きながら次から次へと、富士川の話を語り出す。

今年2月、富士川の舟運について描いた小説を出版する。
約400年前の話。舟運を始めた角倉了以(すみの・くら・りょう・い)と了以を支えた人々。彼らの半生を書きながら、富士川沿いに暮らす民衆や文化を丹念に描き出している。消えかけていた富士川の伝統を後世に残す必要があると考えたのが執筆に取り組んだ理由だ。史料を探すため、県内の寺院を回った。九州や岡山県まで文献を探しに出掛けた。
 望月さんは富士川の支流がある早川町出身。旧建設省で富士川の治水に携わり、今は、県河川防災センター理事長を務め、富士川に関する講演を年に10回以上している。
 「富士川は古くから地域の人々を支えてきた宝。このことを次の世代にもきちんと伝えたい」
 
静岡県境にある南部町の富沢地区。
 午前5時過ぎ。月の光が富士川の川面に映る。昨年11月末、この日も鍋田進さん(65)は「もじり漁」をした。

 日本三大急流の一つである富士川で江戸時代末期から続く。今は10、11月に、この伝統的な漁が解禁されている。
 鍋田さんは、ゆっくりと川の中に仕掛けた「もじり」と呼ばれる巨大な竹の筒に近づいた。
 直径2メートル、長さ7メートルもある。70本近くの竹を鍋田さん自身で編み込むが、出来上がるまで丸2日かかる。竹選びや作り方には手間と経験を要する。
 川の流れが集中する場所に仕掛け、川を下る魚をのみ込むのだ。
 もじりの中ではアユが跳びはねている。「この瞬間が最高なんだ」。笑い声が辺りに響く。この日は、4匹のアユが取れた。多い時は10匹以上のアユやウナギがかかるという。
 鍋田さんは19歳の頃、静岡県から移り住み、漁を始めた。1960年代は、もじり漁の最盛期。川沿いでは、20軒近くの民家がもじりを仕掛けていた。だが月日の流れは富士川の姿を変える。砂防ダム開発などで川の環境は変わり、魚は激減した。
 もじりは設置だけで半日はかかる。急流での作業で足を滑らせれば、命の危険もある。漁獲量も少ないため、商売としても成り立たない。今も続けているのは鍋田さんだけ。建設業の傍ら、十年あまり1人で続けている。
 「割には合わない。でも富士川のかけがえのない伝統。おれが元気なうちは、絶対に続ける」。昨年は期間中、8回ほど、もじりを仕掛けた。今年の晩秋もまた富士川に、鍋田さんの豪快な笑い声が響くだろう。