御用研究者と言う言葉がある、常にお上の顔を伺いながら、お上の思うとおりのデータを出す研究者の事を言う。多くの場合、研究費は税金からの補助金と言う形で支給される。だからお上(文科省、厚労省、国交省等等)に不利になるような言動や論文は自然と少なくなる。昨今のダムや河口堰をめぐる問題でも野田さんや天野さんの著作の中に御用研究者のくだりがある。不幸なのは研究費だけではなく、国に反発するような教授がいる研究室の学生は就職までもその範囲が狭まると言う。まさに兵糧攻めなのだ。
宇井先生にはお会いしたこともお話を直接聞いた事もないが、信念の人であったと聞いている。惜しい人を失った。合掌
以下記事
沖縄大学名誉教授の宇井純さん死去 公害研究の第一人者
2006年11月11日朝日
水俣病の研究や被害者の支援などを40年近く続け、公害研究の第一人者として世界的に知られていた、沖縄大学名誉教授の宇井純(うい・じゅん)さんが11日午前3時34分、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、東京都港区の病院で死去した。74歳だった。通夜は15日午後6時、葬儀は16日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は妻紀子(のりこ)さん。
東京都生まれ。東大応用化学科卒業後、日本ゼオン勤務を経て、東大の都市工学科助手になった。専攻は衛生工学。60年ごろから、水俣病を研究するかたわら、問題を提起する詳細なリポートを労働組合機関誌に発表。被害者の側に立った活動を続けた。
下水処理や水質分析などの研究を続け、68年には世界保健機関(WHO)の研究員として欧米に渡り、公害の構造と深刻さを世界に伝えた。
70年から15年間、東大で公害問題などについて市民に直接伝える「自主講座」を開講した。東大では昇進の道を閉ざされて「万年助手」と言われたが、86年に沖縄大学教授に転出。新石垣空港の建設反対運動などに参加した。
反社会的企業や学者を一貫して批判する行動派の科学者として、国内で広く知られる一方、アジア太平洋環境賞を受賞するなど、国際的にも高く評価された。
自主講座の内容をまとめた「公害原論」や「キミよ歩いて考えろ」などの著書がある。
宇井先生にはお会いしたこともお話を直接聞いた事もないが、信念の人であったと聞いている。惜しい人を失った。合掌
以下記事
沖縄大学名誉教授の宇井純さん死去 公害研究の第一人者
2006年11月11日朝日
水俣病の研究や被害者の支援などを40年近く続け、公害研究の第一人者として世界的に知られていた、沖縄大学名誉教授の宇井純(うい・じゅん)さんが11日午前3時34分、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、東京都港区の病院で死去した。74歳だった。通夜は15日午後6時、葬儀は16日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は妻紀子(のりこ)さん。
東京都生まれ。東大応用化学科卒業後、日本ゼオン勤務を経て、東大の都市工学科助手になった。専攻は衛生工学。60年ごろから、水俣病を研究するかたわら、問題を提起する詳細なリポートを労働組合機関誌に発表。被害者の側に立った活動を続けた。
下水処理や水質分析などの研究を続け、68年には世界保健機関(WHO)の研究員として欧米に渡り、公害の構造と深刻さを世界に伝えた。
70年から15年間、東大で公害問題などについて市民に直接伝える「自主講座」を開講した。東大では昇進の道を閉ざされて「万年助手」と言われたが、86年に沖縄大学教授に転出。新石垣空港の建設反対運動などに参加した。
反社会的企業や学者を一貫して批判する行動派の科学者として、国内で広く知られる一方、アジア太平洋環境賞を受賞するなど、国際的にも高く評価された。
自主講座の内容をまとめた「公害原論」や「キミよ歩いて考えろ」などの著書がある。