色んな所でお名前は聞いて知っておりました。地域に根ざす医療。
合掌

南木桂士さんの文学もこの病院から生まれた。

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以下記事
地域医療に尽力、佐久総合病院名誉総長の若月俊一氏死去
2006年08月22日13時00分

 「農民とともに」を合言葉に、半世紀以上にわたって地域医療や農村の保健に力を尽くした長野県佐久市の県厚生連佐久総合病院名誉総長の若月俊一(わかつき・としかず)さんが22日午前5時5分、肺炎のため同病院で死去した。96歳だった。近親者のみの密葬は同市臼田2211の2の自宅で。喪主は長男健一(けんいち)さん。本葬の日時・場所は未定。


 東京・芝生まれ。東京帝国大医学部を卒業し、戦時中の45年3月に外科医長として佐久病院(現・佐久総合病院)に赴任。翌年、院長となり、98年に勇退した。

 都市に向けがちな医療の目を農村に注ぎ、住民自らが健康意識を高めることに腐心した。

 忙しさや貧しさゆえに通院したがらない農民たちに接し、無医村での巡回診療を開始。「農村に入るなら、演説ではなく、演劇をやれ」という宮沢賢治の教えから、病院に演劇班を組織し、芝居や人形劇を通じて農村に予防知識を普及させるなどのユニークな取り組みを行った。

 59年からは近隣の八千穂村(現・佐久穂町)で健康手帳を一人ひとりに渡し、健康台帳を病院で管理する「全村健康診断」を実施。老人保健や在宅看護の分野で国の政策の先駆けとなるなど、後に長野県が長寿県となる礎を築いた。

 病院歌「農民とともに」を自ら作詞。保健ボランティアの勉強会では、「一番大事なのはカネや名誉じゃない。健康です。助け合って生きる社会を、この山の中で作っていきましょう」と若者に語りかけた。演劇や講話を組み合わせた独自の保健活動は、アジア、アフリカの発展途上国に受け継がれている。

 71年度に朝日賞(社会奉仕賞部門)を受賞。76年、アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受けた。国際農村医学会名誉会長、アジア農村医学会長も務めた。

 98年9月には、早朝に病院で原稿を書いていて気分が悪くなり、救急外来まで歩いて行って「大動脈瘤(りゅう)破裂らしい」と病名を言い当て、緊急手術で命をとりとめたエピソードもある。著書に「村で病気とたたかう」(岩波新書)など多数。

 〈鎌田實・諏訪中央病院名誉院長(長野県茅野市)の話〉 ぼくは若月先生のやられた地域医療にあこがれて、八ケ岳のちょうど反対側の諏訪中央病院に赴任した。何度もお訪ねし、いろんな教えをいただいた。自分にとって一番の師だと思っている。医師不足だった30年ほど前、同じように青年医師たちが先生を見習って全国に散らばり、地域医療の花を咲かせた功績は計り知れない。怪物だと思っていたが、亡くなられたと聞いてとても悲しい。自分の本の中でも地域医療の神様と尊敬し、学んできたので残念でならない。とても悲しいです。
阿弥陀堂だより