おやじのぼやき

日々おやじが思う事。。。。。

2007年02月

子供の脳と創造性

茂木さんの学芸付属での講演

子供が小さい頃に聞きたかった。。。。泣

長い目でみれば学歴社会は終わり、すでにネット上に最高学府があるという意見には賛成です。多くの専門誌がフリーで読める時代になり、大学自体の専門性は少なくなるのでしょう。もちろん一部の技術を取得するためのコースは残るのでしょうが。

孫にかけようと思う(笑)いつになることやら。

こんな立ち位置もあるのかな

国境などと言う概念が浅はかだと思うのです。
自然は思っているのでしょう、「人間は愚かだと」アース

立ち位置

50f01c1b.jpg宮本常一さんの本を読んでいるのだが、やはり対象物あるいは対象者を見る、観察する位置を常に考えていないといけないと感じるわけです。これは民俗学だけの問題でなくあらゆる分野で重要な事だと思います。
この画像を見ていつも自分に言い聞かせています。

水を取り戻そう

水力発電所データ、県内25カ所「不適正」
水利権を盾に好き放題の電力会社、実は裏でデータの捏造。本来は下流に放水できる水量まで会社の利益に使っていたのでしょう。魚を含む淡水生物をどのくらい殺してきたのでしょうか?

JTも死に物狂いだな!

asahi.com: JTが禁煙反対の組織票 神奈川県の条例賛否アンケート
オイラはチェインスモーカーだったので多くの方に迷惑を掛けたことを、禁煙してから分かった。吸うのは自由だが、第三者に迷惑を掛けてはいかん。まして公共の場で吸ったり、歩きながら吸うのは良くない。さらに吸殻の投げ捨てなどもってのほかである。嗜好品と言うよりは死好品だと思うけど、最近は。

未だアメリカもこんな状況なんですね

livedoor ニュース - HIV感染の売春婦とわかりパニックに チェイニー大学の学生寮
薬があっても、行動が伴わないとね。

今後の展開を注視したいですね

asahi.com:川辺川ダムを「穴あき」に 国交省の有識者委が検討要請
何冊かの川辺川関連の本を読んできたが、そこに見えるのは住民の安全より利益誘導。本当に下流の住民の安全と財産を考えるのあれば今回の答申でよいのではと思う。この答申読めるのかな?ネットで

非常に欲しいが。。。高い。 オショロコマ写真集

オショロコマ貴重さ知って 知床49水系固有の特徴写す 北見・矢崎さんが写真集
素晴らしい人がいるんですね。写真集が過去の古き良き時代を残す道具になり下がらないように、自然を考えないといけませんね。

講演 脳と人間 茂木健一郎

学士会館で行われた講演。
茂木さんがかなり緊張してしゃべっているのが良い(笑)
このMP3は保存版ですよ〜。ちょっと長いけどね。

知性とは総合力であるのですよ。総合知。
専門バカは駄目なんですね。専門すら出来ないおいらはさらに駄目なんだけどね(笑)
生きて死ぬ人間が何をすべきか?そこに哲学がある。

ビデオキャプチャBOX

こんな広告
大切なVHSビデオや8mmビデオをデジタルDVD保存
これまで録りだめた大切なVHSビデオテープや思い出の8mmビデオテープなどをデジタルでDVDに保存可能。DVDなら画質の劣化もなく、キレイなままで映像を残すことができます。また、ビデオテープのようにかさばらず場所をとらないため、収納にも大変便利です。

確かに便利そうである。長男が生まれた時に大金をはたいて(20万以上したと思う)8mmビデオ(ソニーだった)を買った、肩にしょって使うようなタイプであった。その後、ミニDVのビデオを購入し家族を撮影した。
でも、殆ど録画した画像をみていない(笑)

早いところDVDにダビングした方がよいのかもしれない。
息子曰く、安いDVDだと長期保存が出来ない。本当ですか?
いずれにしても、他のメディアにダビングしないといけないな。

世の中の進歩についていけないオヤジである。

戦争という仕事 内山節 2006

備忘録として。

戦争が仕事になっている現代、私たちは労働をどのように捉えておくべきか、考えさせられます。内山さんは特に自然とのかかわりの中での労働を自分が上野村に住んだ経験から考察しています。根本的な部分は養老先生の思想と全く同じではないかと感じました。脳化してしまう社会(労働)の脆弱性は体を使って感覚を自然の中で取り戻すことでしか再生しないのだと。

戦争という仕事

はっきり述べてしまえば、アメリカは先住民を抹殺という恥ずべき行為の上に成立した国である。だがその恥を認めることは、建国自体が不正であったことを認めることにつながる。たとえこの過程で少々の問題があったことは認めても、建国とその後の歴史は、文明の偉大な発展として肯定する他にないのである。そしてそれを肯定するかぎり、自分たちに同調しない異文化の社会はその記憶をふくめてその社会に自分たちの文明を提供しながら、その文明の支配圏を拡げ資本主義の利益と合致せるという方法も、アメリカ的自由を守る武器として肯定されつづけることになる。私は現代の戦争の出発点はここにあると考えている。p37
労働に対する動機と「信用を高める」ことが結びつかなくなったとき、日本の社会は、真面目に働くことの意味を見失ったのである。その結果、多くの人たちは真面目に真剣に働きたいのに、その情熱をむけることのできる仕事がみつからないという今日の状況が生まれた。p78
18世紀後半のフランスの経済学者ケネーは、農業だけは富を増加させていると主張した。それは農業には自然の生産力が加わっている。彼は社会の富の総量は自然の生産力によってもたらされた以上にはふえないと考えた。p82
確かに日本の精神文化では、自然と人間の関係が微妙だった。人々は自然の世界にある種の理想を感じながら、しかし自然の一員に完全にはなりきれない自分たちを知っていた。そこに生まれる間をみることによって、自然とともに生きる人間の精神をつくりだした。そして労働と間の連続性を感じることによって、労働のなかに、肉体の消耗だけでは終わらない楽しさや働きがいもあることをみつけだした。とすると、間を大事にした日本の精神文化も、自然や労働と結ばれていたことになる。p122
精神の奥に、私たちのつかめない何かがあると考えたほうが諒解しやすい現象がいくらでもあって、それをどう考えたらよいのかを、今日ではいろいろな分野の人々が迷いはじめたのである。それに生命という名称を与えるのか、魂と呼ぶのかとはともかくとして。おそらく、こういうことなのであろう。生き物たちは、生命の交歓のなかで生きている。もともとは人間も、自然のなかで同じように生きていた。その頃は労働のなかに生命の交歓があった。ところが、労働のなかに自然がかかわらなくなったとき、生命がみえなくなり、自分の生命をもつかむことができなくなった。ここに現在の私たちがいる。p125
農閑期に農家の人を雇っていた土木会社の経営者は農民の目と能力を生かした道が出来た。しかし農業の機械が進み、しかも農業では生活できなくなってくると、社員は通年雇用を望むようになった。そして普通の会社になってしまった。会社の経営者は「どうしたらよいのか」「これでは村の土木会社である価値がない。村の土木会社が、村の自然も、村における農の営みもこわすような仕事をしている現実を、どう直したらよいのか」彼の話を聞きながら、私は、本当は自然を改造する仕事は、その地域で自然とともに暮らしている人々だけに与えられるべきなのかもしれないと思った。もちろん、その設計や工期の設定も含めて、である。今日の私たちは、自然をみることができない仕事をしている。それが人間の労働能力の大事な部分を失わせた。私たちの暮らす時空が人間だけによってつくられているのではなく、自然と人間の相互性によってかたちづくられている以上、自然がわかならないことは労働能力の低下である。問題は、市場経済はそのことを視野に収めないシステムだ、ということのほうにある。p128
人間のためという思い上がった「善意」が、いろいろなかたちで現代世界を徘徊する。イラクの人々に自由と民主主義を、つまり文明の発展を与えるという「善意」が、戦争というかたちをとって、イラクの人々の暮らしを破壊しつづけていること、技術が人間の文明を発展させるという「善意」の間には、基層的な発想の共通性がよこたわっているといってもよいだろう。自然に影響されることは不自由と考え、自然の影響から自由になることを発展と考える発想を底において形成されてきた現代技術は、自然と人間の橋渡し役になれないばかりか、自然にとっては凶器になりかねないという性格を持ちつづける。p140
資本主義は原理的には何の倫理性もない経済システムである。せいぜい法に触れないように注意を払われるだけであって、だからこの経済システムからは、たえず腐敗と不正、不法が生まれつづける。p192
資本主義批判は、近代がつくりだした世界全体への批判と結びつき、人間のあり方を根本的に問い直しながらすすめられている。ある人たちは、自然との結びつきを取り戻しながら、自然を忘れた近代的な人間のあり方を問い直し、そこから資本主義批判をも視野に収めようとする。またある人は他者との関係をつくり直すことによって、あるいは経済合理性だけによらない働き方をつくることによって、資本主義を内在化させた近代的世界全体と向かいあおうとする。現代とは、新しい視点から資本主義批判を生みだしつつある時代。私はそんなふうに感じている。p204
上野村における「仕事」と「稼ぎ」に関しての内山さんの考察。「稼ぎ」は一軒一軒、一人ひとりのもの、つまり個人主義的なものである。しかも「稼ぎ」を効率よく実現させようとすれば、自然に敵対する行為も生じかねない。共同的な精神が失われれば、共同体が分解してしまう。おそらくこの様な現実を経験していくうちに、生活を守るためには「稼ぎ」も大事だが「仕事」はもっと大事だという気風をつくりだしたのだろうと思う。村という永遠の世界と結ばれているのが「仕事」であり、そのときどきによって変わっていくのが「稼ぎ」である。 ここで仕事とは村での種々な共同的作業をいう。p260
作るから「残す」へ。群馬県の二十一世紀プランの策定にあたって。百年後を考えると作ることのほとんどが意味を失う。そこで「残す」計画へ変わったそうである。そこで産業政策としては次の二つだけが書かれているそうだ。ひとつは農業、林業などの一次産業を守り、残す。もう一つは私たちはどんな仕事のシステムを作ったら、真面目に働けば働くほど自然や環境が守られ、地域社会が活き活きとした社会になり、豊かさを感じられるような家族が生まれていくのか。そういう働き方を見つけだすことが労働政策の基本にならねばならない、と。p316
戦争という仕事

ブレない政治家であるとは思うが

asahi.com:「小泉政治と決別を」亀井静香氏、予算委で6年ぶり質問
ブレの無い政治家であるとは思うのだが、日本を変えるところまでのカリスマ性はないように思ってしまう。でも頑張って欲しい

伝統の技を受け継ぐ歴史

asahi.com:何でもござれ十日市 南アルプス - マイタウン山梨
まだ一度も見せていただいた事がないのですが、人間の技が作り出す暖かさをもった製品があるのだと思います。安売りスーパーでは決して見る事や触れる事が出来ない逸品があるんでしょうね。来年は絶対行きたい。

999円のMP3プレーヤー

6e9cbf6f.JPG長男が帰省してきて、貧乏人のおいらの要請に答えて買ってきた。
SDカードは付属しないが、あとは全て付いている。この値段で商売になるのだろうか。。。
音もおいらのような感受性のない人間には問題なく聞こえる。

ネットでもこの値段で買えるそうだ(送料別)。
これにノイズリダクションのイヤホンつけて通勤読書に使うかな(笑)

ひたすら体を動かす

竹を切り、鉈で枝をうつ、灯油をセルフ給油の店に買いに行き、さらに竹を切る、以前切って乾いている竹を少し焚き火で焼きました。
ダッチオーブンがほったらかししで表面が錆びてきたのでサラダオイルで拭いて放置。
新たに買った竹切り用ソーチェンを大分昔に購入したアメリカ製のチェーンソウに装着。さすがに良く切れる。(笑)これで2台とも竹切り用に変身。

汗だくになり筋肉痛。さあビールもどきを飲もうっと。
いっこうに痩せないわけである。トホホ

Ph.Dの名前がすたる日

asahi.com:文系の博士号、難しすぎ? 理系の3分の1以下
逆に理系が簡単すぎなんです。きっぱり。大学による差もあるし、学部内での差、さらには学科内でもレベルに差があるんですから。もっとも簡単なのは、よく言われますが医学博士です。街で石を投げれば当たるといいます。某私立医大では審査する主査に100万、副査二人に50万ずつ包むと大分昔聞きました。医学博士は特に医学部の卒業した医師でなくても申請出来ますから多いんですね。それに場所により凄く簡単に取れるので。逆に企業や公立の研究所なんかには、当然博士号を持っていてもおかしくない業績がある方が沢山います。ちなみに博士号はPh.Dですが果たして本当にどのくらいの博士号所持者が哲学的思考をされているのでしょうかね。(笑)

「里」という思想 備忘録

まだ書き留めなければいけない文章がありますが、疲れた(笑)

備忘録
村人たちは、どんな方法で自分達の思想を表現しているのだろうか。私は、それは<作法>を通してではないかという気がする。 採り方の作法とかを内山さんは示して。 p32
だから、現在の私たちは問い直している。自然とは何なのだろうか、と。人間はなぜ生きているのだろう。豊かさとは何で、人間にとって仕事とは何なのだろう。それらはどれも、知性の力だけでは答えの出ない問いばかりである。知性の奥にある感覚が、それを感じとらなければ、けっして分からない問である。なぜ私は村の春のなかに、豊かさと安心を感じとるのかという問が、またそうであったように。 p43
村でいう「公共の仕事」は、みんなの世界の事であり、みんなでする仕事である。p49
上野村でも、いくつかの馬頭観音の言われが語られているそうです。その中の一つに、山の中には時空の裂け目というものがあり、この裂け目は誰かが命を捧げなければ埋めることが出来ない、人間にはその裂け目を見ることが出来ない。オオカミはこの裂け目を利用して時空を移動していた。馬はこの裂け目を見つける事が出来、みずから命を投げ出し、人間の身代わりになった。村人がそれに気が付き、馬が事故死した場所に観音様を建てた。p59
現代人は、小さな地域や一人一人がもっている歴史の貴重さに気づかなくなった。そればかりか、画一化された歴史観を世界に押し付けるようになった。歴史は非文明=野蛮から文明に向かってすすまなければいけない、とか、歴史は経済の発展とともにある、とか、古代から現代にむかって歴史は進歩してきた、とか。中略。そしていま、世界史よりも、たとえばアフガニスタンやイラクで暮らす人々を支えている歴史を、知りたいと思う。そこから歴史哲学がはじまるのだ、と。p65
日本とアメリカの人々の間に、あるしゅの共通性を作り出したように思える。過去をもたない移住してきたアメリカ人と、語り継がれた過去を捨てた私たち。この両者は、自分がなぜここで生きるのかをつかめないままに、進歩をめざして走りつづける以外に存在感が発見できないという、共通の心理をもつようになった。そのことが、いかに精神的に安定しない社会をつくりだしたことだろう。p75
歴史哲学は、人間にとっての歴史とは何かを課題にしている。中略。といっても、今日では歴史哲学は歴史学の一万分の一も議論されていない。それは、近代社会に暮らす人々が、過去を受け継ぐものでなく、乗り越えるものだと考える精神の習慣をもっているからであろう。p77
身体の記憶に包まれることがなくなった知識だけの記憶は、それ自体として弱さをもっているのである。現在では、人間の能力や力の低下がもんだいにされるようになった。知識はある程度もっているのに、歴史が蓄積したものを受け継ぎながら創造的に生きる力が弱ってきている。p85
近代的な発想は、グローバルな発想や思想、システムに価値があり、ローカル性に基盤をおいたものを、あたかも古い時代のものであるかのごとく軽視したのである。その結果が、浅い知識だけで生きる人間の退廃を生んでいる、と最近になって気がつくようになるまで。だから、私も、いまでははっきり言う事ができる。人間は少なくとも一方に、ローカルな世界をとり戻さなければいない、と。p97
人間と自然のあいだには、生き物の権利を主張するだけでは解決できない問題がある。おそらく、今日もっとも説得力のあるのは、次のような理論であろう。それは、自然保護とは、自然と人間とがいかなる関係を結ぶとき、お互いを破壊し合わないでいられるかを考えることである、という理論である。p99
二十世紀の終盤に入ると、新しいことに気づかされた。それは、労働のなかでも、生活においても、私たちは代替可能な人間になっている、という現実である。中略。一人一人の人間が、かけがえのなさ、を失っていたのである。それが、かけがえのない人間として働いている、生きているという感覚を低下させ、逆に現代というシステムの中に組み込まれている自分ばかりを感じさせるようになった。とすると、人間とは何なのか。私たちはあらためて、この問いを発しなければならなくなった。p136
二十世紀の社会はこのような前世紀の労働者たちの労働への思いを(人間的な労働、労働に誇りがもてる働き方)、けっして実現することはなかった。むしろ逆に、二十世紀は、働くこと自体の意味を問うのでなく、労働の結果を享受することで満足する時代を、つくりだそうとしたといってもよい。p137
二十世紀の社会は、労働を使い捨てるものに変え、経済的利益の手段にしていった。それは経済社会を頽廃させたばかりでなく、自分の仕事をとおして根の張った生き方をすることが困難な時代をつくりだした。ここから生じたさまざまな問題を、私たちは二十一世紀の課題として背負った。p141
伝統的な日本的精神とは、多層的精神という言葉に集約できるのではない、と私は思っている。もっとも、このことは、これまで日本人の精神のあいまいさとして語られてきたことなのだがけれど、それあいまいとしてとらえたのは、誤解だったのではなかろうか。そうではなく、さまざまなものを多層的に受け入れるところに、伝統的な日本的精神の特徴はあるのではないかと。中略。「つきつめれば、生きるも死ぬも吾一人」という徹底した個人主義の精神があり、他方には共同体とともにいきる共同性を重んじる私心がある。p161
日本においては、自然はありがたいものであると同時に、時に暴力であり、人間にとっては恐怖でもあった。ところが、それらもまた、すべてが困りものなわけではなく、たとえば豪雪や洪水の後には、それがゆえに豊かな自然もつくられる。この自然の多層性を受け入れていく暮らしが、伝統的な、多層的な精神をつくりだしていった基盤なのだと思う。だから自然と結びついた暮らしをやめたとき、多層的な精神も混乱するようになったのだ、と。p163
今日のグローバル化の動きは、世界を再び一元的な秩序の下に統合しようとしているようにみえる。アメリカ的市場経済による世界統合と、軍事力を背景にしたアメリカ的世界秩序の確立。それは復興をめざした多元的世界が、アメリカ的世界にのみこまれていくことである。こうして、反グローバリゼーションの感情は、反米感情と結びついていく。p172
現在、先進国の報道機関は、驚くほどに同じような内容のニュースを流しつづけている。それをみていると、世界はここまで一元化していたのかと驚かされる。そこに、今日の世界を不安定化させた要素がひそんでいることに、私たちは気づく必要がある。p176
経済の面でも、政治や軍事力の面でも、正義が勝利とともにあるという文明社会がつくりあげられたのである。この文明においては、敗北は正義を失うことであった。だから、かつてアメリカは、ベトナムで正義を失っている。その結果、ベトナム戦争の後遺症が、アメリカ社会をさまざまな場面で同様させた。そして、だからこそ今日のアメリカは、テロリズムに勝利したいと演出せざるをえなくなっているのであろう。p183
このようなさまざまな出来事の奥に透けてみえるものは、「真理はひとつ」「正義はひとつ」を唱える社会のまずさ、である。この社会は、自分たちの正義を暴走させ、そこにひそむ傲慢さに気づかない。中略。二十一世紀に入って、いま私たちは、金と権力と支配の拡大にしか価値をみいだせない人々が、唯一の正義をふりかざしながら、戦争を行なっている姿をみている。p201

「里」という思想 内山節 新潮選書 2005

図書館本
「戦争と言う仕事」の前作である。これもポストイットだらけになった一冊である。いかに自分が真剣に社会は人生を考えてこなかったか身にしみて分かった。備忘録的に各章のはじめを書き留める。

内山さんが信濃毎日に2000年1月から2002年3月まで掲載したものに加筆したもの。
在野の哲学者として上野村に住み(釣りを通して住むことになる)、自然と人間のかかわりを本質的に見直さなければいけないのだと主張されていると理解した。資本主義、社会主義などと言う枠組みを超え、経済的な勝ち負けなどという短絡的な評価ではない人間としての生き様はどうあるべきかを自然をどのように捉えるかを考える事により提示している。生きる上で最も重要な因子である労働と言う思想にも言及し、この後の著作である「戦争という仕事」に繋がっていく。2001年9月のアメリカでのテロ事件の根底に流れるアメリカ的思想の危険性をグローバリズムと言う単一思想の価値観の押し付けとして厳しく批判していると思う。

第一章 山里にて
一九七〇年代に入った頃、私ははじめて群馬県の山村、上野村を訪れた。村の面積の九四パーセントを森がしめ、谷底を利根川の支流、神流川が流れる。何となくこの村が気に入り、私は村と東京とを往復しながら暮らすようになった。いまの上野村は、千六百人ほどの人々が暮らす。
私もわずかな畑を耕し、森に入り、本を伐り、川で釣りをする。村の人たちといろいろな活動をする。
この村で私は、思想は、その思想を包んでいる時空から離れてはありえないことを知った。

第二章 歴史の意味
歴史の研究者たちは、これまで、「真実の歴史」を明らかにしようとしてきた。しかし、歴史の意味はそれだけではないのだと思う。現在の自分たちとは何かを教えてくれる時間の蓄積。だから私たちは、たえず過去に問いかけ、「いま」とは何かを考えようとする。歴史は人間の思考を深いところに導く。

現在の私たちは、歴史をもたない社会がもつ暴力性や一面性を、「アメリカ的行動」のなかにみている。哲学は歴史哲学を取り戻さなければならない。

第三章 思想のローカル性
近代社会が形成されてくると、人々は真理は普通的なものだという強い確信をいだくようになった。自然科学が発見した「真理」が世界のどこでも通用するように、あらゆる真理は普遍性をもつている、と。
本当の普遍性には、「場所的普遍性」、あるいは「空間的普遍性」と「時間的普遍性」うべきものがある。「場所的普遍性」とは、どこの場所でも通用するものであり、「時間的普遍性」とはいつの時代にも通用する普遍性である。このように分けるなら、近代社会とは、「時間的普遍性」に対する忘却を重ねながら、「場所的普遍性」を重要視することによって生れた社会だといってもよい。たとえば今日のグローバル化していく市場経済とは、アメリカ的な市場経済のあり方が「場所的普遍性」を確立していく過程である。
近代社会におけるこの精神的雰囲気が、思想にも大きな影響を与えた。すぐれた思想は「場所的普遍性」をもつと人々は考えた。
だが、本当にそうなのだろうか。むしろ逆に、思想はローカルなものとしてしか成立しえないのではないか。私たちはもう一度、「思想とは何か」という問いにたち返ってみる必要がある。

第四章 グローバルな時間と私たちの仕事
かつての人々はさまざまな時間のなかで働き暮らしていた。各地で暮らしていた先住民たちは自分たちの時間を持っていたし、仕事のあり方も時間に多様性を与えた。農家の時間、漁民の時間、職人の時間・・・・。時間は風土であり、文化であった。
現代社会とは、時間の画一化によって生まれた世界なのだと思う。いまでは、世界が同じ基準で動く時間に管理されているかのようである。そして、その時間が経済と労働の領域から発生してきたことに気づくとき、さらに、時間の統一こそが今日のグローバリゼーションの基盤になっていることを知るとき、私たちは問いかけたくなる。その結果、人間の労働はどう変わったのかを。この延長線上に豊かな労働の世界を思い描くことができるのかを。

第五章 日本的精神
明治以降の私たちの社会は、日本それぞれの地域がもっていた、 ローカルな時間の歴史的な蓄積を破壊しつづけてきた。この破壊のうえに国民国家という統合社会を形成してきたといってもよい。
この過程ではさまざまなものが変容している。ローカルであることの意味も変わった。社会観も、人間観も、自然観も変わった。そして知の営み方が変わったとき、私たちは日本的精神とは何かがわからなくなった。共同体とともに生きながら、孤独な個人主義をもちつづけた庶民の精神も、自然とともに生きつづけた人々の精神も。
私たちは今日、現代世界はどこかで方向性を間違えたと感じている。とすると、どこで、何を間違えたのか。その解明をすすめるために、新しい視点で日本的伝統とは何かを検証する。

第六章 九月十一日からの三カ月
二〇〇一年のある初秋の日、私は上野村の家で過ごしていた。夜になってテレビをつけると、ニューョークのワールド・トレード・センタービルから煙の上がる映像が映し出されている。しばらくすると二機目の飛行機がもう一方のビルに衝突した。「テロらしい」。私はパソコンの回線を「ニューョークタイムズ」や「ヮシントンポスト」に手はじめにつなぎ、次々に接続を変えながら情報を得ようとした。しかしそれは虚しい行為だった。テレビの画像以外には、いかなる情報も得られない。人間がインターネット上に情報を入れなければ、パソコンは何の情報も提供しないのである。
翌日になると、インターネット上では人間の入れた大量の情報が提供されはじめた。ところが、それをみていた私は唖然とした。すべての情報が、人間たちをひとつの方向に誘導しようとしているかのようだった。アメリカから発せられたものばかりでなく、イギリスからのものも、フランスやドイツからのものも。〈テロとの闘い〉がこうしてはじまっていったのである。この事態をいかに考えるか。ここに私の9.11以降もはじまった。
この章で収録したのは、ほとんどが二〇〇一年九月十一日直後から三カ月ほどの間に書いた文章である。同時進行的に執筆しているので、 いまとなっては多少わかりにくさもあるかもしれない。アフガニスタンヘの戦争は、その後イラク侵攻へと拡大した。しかし、私は大した訂正もせずにこの章を組んだ。九月十一日以降の時間のなかで、私たちが問い直さなければいけないことを明らかにするために。「里(ローカル)という思想」という本書のテーマをいっそう明確にするために。


「里」という思想

本当でしょうかね?

asahi.com:公共事業、8割が悪印象 国交省調査
大本営発表のように思えますがね。特に、公共事業の必要性については、「必要」「どちらかといえば必要」が計79%。関心度の設問でも、68%が「関心を持っている」と回答した。とありますが、マジっか?

もののけ姫 宮崎駿監督 1998

図書館ビデオ

一度みておりました。網野善彦さんの著作の中に「もののけ姫」を見られての感想や宮崎監督との対談があり、自分の内容への理解の不十分さをまざまざと感じました。そして再度見ました。
鈩場(たたらば)に居た包帯だらけの人々が誰なのか、森と人間との係わり合いの難しさ、そして自然をも管理してしまおうとする人間の強欲さ。
最後のシーンはまさに国敗れて山河ありであり、自然の圧倒的強さと優しさを見せつけているんですね。内山節さんの「里という思想」に書かれている日本人の自然観をアニメというメディアで想い出させてくれているようです。

もののけ姫【劇場版】

明日の日本の姿を見るようです

asahi.com:カトリーナ被災から1年半 人口半減、犯罪逆戻り
やっぱりと言うか、これが同盟国の姿でしょう。ほぼ日本人が居ない、行かない、そして見ない地域。実はこれがアメリカの現実なんですね。

有楽町で飲みましょう♪

フジヤのネオンが寂しく見える有楽町。
そろそろ付き合いも30年になるママの店で、20年になる仕事仲間と、まったくストレスなしに酒を飲む。ついつい飲み過ぎる。
生のもさえびもおいしゅうございました。
でも終電にもならずに帰還。(笑)

さて3連休である。特に予定なし(笑)ふじやかに








日本酒もさえび

先進国の搾取への反逆

CNN.co.jp : WHO、ウイルスを知的財産と主張のインドネシアを非難 - サイエンス
これまで実に多くの細菌やウイルス、あるいは薬草などが開発途上国から先進国に流れ研究に用いられた。一部は多大な利益を生み出したのは言うまでもない。この記事はよく読めば分かるようにインドネシアの主張は商業目的の場合はパテントを主張するというだけである。だから契約をしっかりすれば良いだけなのである。研究に対してとやかく言っているのではない。アフリカなどはさらに”サファリリサーチ”(金を払えばどんな研究もアフリカで出来る)を国益にならないとして今後受け入れないという態度である。まったくもって当然である。

言論の自由と個人情報プライバシー

livedoor ニュース - 大失言「主婦は地味な立場」―ゲンダイネットの記事より
メディアの権力によって葬られる人がいる。逆にメディアで不正が暴かれもする。最終的に情報の判断をするのは自分なのだが、発信する側のモラルや教養は誰が判断するのか?いちいち裁判所に委ねる訳にもいくまい。興味本位のメディアとそれを受け入れる個人が多くいる現状は変わらないのだろうか?

グラフにだまされるな!

日本図表審査機構 [JGRO]
このブログは中々良いと思います。自分もテレビ見ていて思うのですが、明らかに作為的にデータを読ませる番組や報道があります。皆さんも気を付けましょう。学会とかでもやる奴がいるけどね

どうしても食べたくなって。。。えぞ菊本店 高田馬場

∴サッポロラーメンえぞ菊∴
一年に何回かむしょうに食べたくなるえぞ菊の味噌ラーメン。昨日は昼飯抜きだったので、みそヤング(1100円)を食ってしまいました。


こんな国になりたくないよな

CNN.co.jp : 米白人至上主義集団の活動が活発化と、移民問題に乗じ - USA
もっとも自由で民主主義の国なんですよね?? 200年しか歴史がない国のやる事はこの程度でしょう(ネイティブアメリカンは決してこんな発想はしないのです)

若手だけじゃないんですけど。。。

asahi.com:若い研究者は世間知らず? 文科省の意識調査
指導者達の教養やモラルも併せて調査してはいかがでしょうかね?専門バカが多すぎると思うけど

あまり手を入れない自然のままに

asahi.com:里山丸ごと品川区に提供 - マイタウン山梨
こちらにも出ておりました。親爺様 最低限の手入れで街の子供が森の凄さを感じてくれると良いと思います。

ワクチンのシンポジウム

昨日、大手町でシンポジウムがあったので聞きに言った。

まさにそうそうたるメンバーによるプレゼンで非常に勉強になった。
またかなりの数のメーカーの方も来ていたようだ。

基本的にワクチンと言うのはペイ出来ない経済活動であると思う。アメリカなども実は補助金(呼び方は知らないが)と言う形で民間にかなりの金が流れているし、臨床試験をたとえばアフリカで行なう時にFHIというNGOを使ったりするが、実はUSAIDと言う政府開発援助団体(税金)から殆ど資金が出ていたりする訳です。
美しい国で開発した痘瘡ワクチンが民間に委譲され、それがアメリカの民間会社(実は政府の金が出ている)でバイオテロ阻止のために研究されるのですが、そのコンテクストでライセンス料が莫大な額になっている、と言うような事実もあったりする。

何が言いたいかと言えば、ワクチン等の直接国民への安全を提供するものは極力国が資金提供しなければいけないと思う訳です。国民の安全と財産を守るのが国家であるのならば。

シンポジウムの中で一部の人間が、国民を教育する必要がある的な発言があり、それに反発する意見が無かったのが残念である。(おいらは発言出来るほどの人間ではないので)。これはワクチンには残念ながら副作用がある頻度で出る事を国民も知るべきだとの背景で言っているのですが、実は研究者の説明責任が今までいい加減だったという背景もあるのです。その点を研究者は認識しなければいけないのですが。。。
本日の研究の全ては税金で行なわれたのですから。

どうも、研究者と言う人種は庶民より上に居ると勘違いしている人が多い集団のようであります。
Profile
鎌倉おやじ
趣味:イワナに遊んでもらう、菜園、読書、焚き火、ランタン

愛読人:内山節、池田晶子、養老孟司、山本素石、高桑信一、相田みつを、宮本常一、網野善彦、野田知佑、南木佳士、川上健一 佐藤優 内田樹(順不同)

夢:晴釣雨読で自給自足、在来魚保護 (最近釣りにはそれほど熱中してません、年のせいでしょうか)
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